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なぜ中学から10年学んでも英語が話せないのか|アジア諸国との対比から見える日本の語学教育

  • 5月27日
  • 読了時間: 7分

多くの日本人は、中学・高校で6年、大学まで含めれば10年近く英語を学びます。単語を覚え、文法を学び、長文読解に取り組み、定期テストや受験のために何百時間という時間を費やしてきたはずです。


それにもかかわらず、「海外の取引先とのメールなら何とかなるが、会話になると言葉が出てこない」「会議で相手の英語は理解できるのに、自分の意見をとっさに英語で返せない」——こうした声は、世代を問わず今も多くの職場で聞かれます。


この現象は、決して一部の人だけの経験ではありません。文法問題は得意でも会話は苦手、読解のテストでは高得点が取れても、外国人を前にすると言葉に詰まる——多くの日本人が、多かれ少なかれ同じような壁にぶつかった経験を持っているのではないでしょうか。

これは、個人の努力不足や「語学の才能」の問題なのでしょうか。それとも、学び方や学ぶ環境そのものの設計に、理由があるのでしょうか。データを見ていくと、後者である可能性が濃厚に浮かび上がってきます。


データが示す「日本の英語力」の現在地



スイスの教育機関EF Education Firstが毎年発表している「英語能力指数」は、世界123の国・地域、220万人以上の受験者データをもとにした、世界最大級の英語力調査です。2025年版によると、日本の順位は123の国・地域中96位。アジアに限っても、25の国・地域中18位という結果でした。しかもこれは、11年連続で順位を落とし続けた結果の、過去最低順位です。スコアは446点で、世界平均の488点を40点以上下回っています。


同じ調査でアジア地域の上位に位置するのは、マレーシアやフィリピン、香港といった国・地域です。これらの国や地域では、英語が教育・行政・ビジネスの現場で実務的に使われている度合いが高いことが、一般的な傾向として知られています。授業の一部が英語で行われたり、公的な書類や職場のやり取りに英語が日常的に使われたりする環境では、学んだ表現をその場で試し、通じるかどうかを確かめる機会が、生活の中に自然と組み込まれています。英語を「試験科目」としてではなく、「使わざるを得ない道具」として日常的に運用してきた蓄積が、こうした結果の背景にあると考えられます。


さらに興味深いのは、日本のスコアを技能別に見たときの内訳です。「読む」「聞く」といった、情報を受け取る力に比べて、「話す」「書く」という、自分から発信する力が際立って弱いという構造が、繰り返し指摘されています。つまり日本人の課題は「英語がわからない」ことではなく、「わかっていても、口から出てこない」ことにあるのです。



この傾向は、国内の公的データでも裏付けられます。文部科学省が実施した2023年度の全国学力・学習状況調査では、中学3年生を対象に、英語で即興的に受け答えする「話すこと」の力を測るテストが行われました。結果、5問中1問も正解できなかった生徒が63.1%にのぼり、平均正答率はわずか12.4%にとどまりました。読む・聞く分野に比べて、話す力の育成には明確な課題があることが、調査を実施した国の側からも認められています。


さらに、この調査に付随して行われた生徒への意識調査が、問題の本質をより鮮明に映し出しています。「聞いた内容は理解できたが、それを英語で表現する言葉が思い浮かばなかった」と回答した生徒が4割を超えたのです。理解はしている。言いたいことも頭の中にはある。ただ、それを英語という形に変換して声に出す訓練だけが、決定的に不足している——このギャップこそが、10年学んでも話せないという現象の正体だと言えるでしょう。


なぜこの差が生まれるのか——才能ではなく「設計」の問題



こうした数字を見ると、「やはり日本人には語学の才能がないのでは」と考えたくなるかもしれません。しかし、それは正しい解釈ではないでしょう。


英語を実務レベルで使いこなす国・地域に共通しているのは、生まれつきの語学適性ではなく、「使う機会」が学習と分かちがたく結びついた環境です。学校教育の中で英語が指導言語として使われていたり、進学・就職・日常生活の様々な場面で英語を使う必然性が高かったりすることで、学んだ知識をすぐに出力する経験が、自然と繰り返されます。知識のインプットと、実際に声に出して使うアウトプットが、ほぼ同時並行で進んでいくのです。


一方、日本の英語教育は歴史的に、文法や語彙、読解を正確に理解することに重点が置かれてきました。これ自体は、精読力や論理的な文章理解力を養う上で、決して無駄ではありません。実際、日本人の「読む」「聞く」の力は、国際的に見ても大きく見劣りするわけではないというデータもあります。問題は、そこから先の「使ってみる」「間違えながら口に出す」という工程が、学習プロセスの中に十分に組み込まれてこなかった点にあります。


加えて、「間違えることへの心理的なハードル」も、構造的な要因の一つです。減点方式の試験に慣れた学習者は、正確さを重視するあまり、多少崩れた表現で構わないから発信する、という発想に切り替えることに苦労します。これも個人の性格の問題というより、長年の評価の仕組みが作り出してきた学習文化と捉えるべきでしょう。「間違えたら評価が下がる」という体験を繰り返すほど、人は発言そのものを避けるようになります。これは英語に限らず、あらゆるスキル習得に共通する、ごく自然な心理反応です。


もう一つ見落とされがちなのが、「英語を使う必然性」の少なさです。実務レベルで英語を運用している国や地域では、進学・就職・行政手続きなど、生活の様々な場面で英語に触れざるを得ない構造があると、一般的に指摘されています。「使わないと困る」という環境があるからこそ、学んだ知識がすぐに実践へと結びついていくのです。一方、日本では日常生活の大半が日本語で完結するため、英語を使う機会そのものが、意識的に作らない限り訪れにくいという事情があります。


つまり、日本人が英語を話せないのは、能力の欠如ではなく、「使う前提の学習」と「使わざるを得ない環境」の両方を、十分に組み込んでこなかった設計上の課題なのです。設計の問題であるなら、設計を変えることで、状況は変えられます。


今日から変えられる、小さな一歩


制度そのものを変えるには時間がかかりますが、個人や組織の単位であれば、今日からでも変えられることがあります。



一つは、「正確さより先に、伝わったかどうか」を評価基準に加えることです。社内の英語学習支援や会議運営において、文法の正しさを一旦脇に置き、「意図が伝わったか」を評価軸にするだけで、発言のハードルは大きく下がります。


二つ目は、日常の中に小さな「アウトプットの機会」を意図的に作ることです。オンライン会議の冒頭1分だけ英語で近況を話す、社内資料の要約を英語で一文だけ添える、AIの音声対話機能を使って毎日5分だけ英語で雑談してみる。こうした小さな積み重ねは、知識を「使える状態」に変換していく上で、実は本格的な語学研修以上に効果を持つことがあります。


三つ目は、評価やキャリアの仕組みに、コミュニケーション力を組み込むことです。

TOEICの点数だけでなく、実際の商談やプレゼンテーションでの発信経験を評価に加えることで、「テストのための英語」から「仕事のための英語」へと、学ぶ動機そのものを転換できます。


四つ目は、「使わざるを得ない環境」を意図的にデザインすることです。海外拠点とのやり取りを一部の担当者に任せきりにせず、若手にも意図的に触れさせる。社内の掲示物や議事録の一部を英語で併記する。こうした小さな仕掛けの積み重ねが、必要性から生まれる学習意欲を育てていきます。


まとめ——問題は才能ではなく、設計にある



10年学んでも話せないという現実は、多くの日本人にとって、決して他人事ではありません。しかし、そこにあるのは「才能の欠如」ではなく、「使う前提で設計されてこなかった学習環境」という、極めて具体的で、だからこそ変えられる課題です。

海外の事例が示しているのは、特別な才能ではなく、学びと実践を分けずに積み重ねてきた時間の蓄積です。であれば、私たちも今日から、小さなアウトプットの機会を一つずつ積み重ねていくことができるはずです。


完璧な英語である必要はありません。文法が多少崩れていても、発音がぎこちなくても、伝えようとする姿勢そのものに価値があります。長年かけて培ってきた「読む」「聞く」の力は、決して無駄になっていません。そこに「話す」「書く」という発信の経験を少しずつ重ねていけば、眠っていた力は着実に動き出します。日本の語学教育は、批判すべき失敗の記録ではなく、まだ変わっていける途中の物語なのだと、私たちは考えています。

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